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どうする家康 本多正信(松山ケンイチ)の存在感!!徳川家康の天下統一に欠かせない人物?!

胡散臭いが知力の高さは徳川家随一だったのではないでしょうか。
服部半蔵との瀬名奪還作戦が一度失敗するが、次の人質交換作戦で見事に奪還?!
今回は、『本多正信(松山ケンイチ)』について少し調べてみました。

みなさんも気になりませんか?

ちょっと覗いてみましょう!

本多正信について

  • 名前:本多正信(ほんだまさのぶ)
  • 生年:1538~1616年7月20日
  • 素性:桶狭間の戦いで負傷し、以降生涯足を引きずっていた
       三河一向一揆で家康と敵対したため、追放される
       その後、大久保忠世の仲介で帰参したと言われている
       帰参後は持ち前の知力を発揮し徳川の天下統一を支えた  
  • 役者 松山ケンイチ(まつやまけんいち)

三河一向一揆

三河三ヶ寺と本宗寺の門徒宗が中心となり、家康を狙った一揆とされています。
発端は定かではないが、家康の三河統一に不満を持っていた教団側が門徒を蹴しかけ一揆を起こさせたとの説が有力とされています。
現代も宗教に関わる事件は多く見られます。また、戦争の発端もほとんどが宗教によるものとも言われています。
家康自身もこの一揆で『宗教』の持つ力を身を持って知ることになったのでしょう。
また、古い文献上では当時の本多正信の目立った働きはなく、ただ単に刃向かった家臣とのことで追放されたのでしょう。

伊賀越え同行説

本能寺の変で織田信長が明智光秀の謀反で暗殺された後の話なので、今回の大河ドラマでは
まだまだ先の話ですが、徳川家康にとっては、「三河一向一揆」「三方ヶ原の戦い」と並び三大危機と言われる『伊賀越え』。
本多忠勝服部半蔵など精鋭の家臣達によって道なき道をかき分け、三河へ帰還したと言われています。
ここに本多正信も同行していたとの説があるようです。
同じ性の本多忠勝がいたため、勘違いからの説かもしれませんが・・・
ただ、今回のドラマででは是非、服部半蔵と共にスリリングなシーンとして登場して欲しいと
願うのは、私だけでしょうか。

方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)

これも歴史上の逸話と言われていますが、豊臣秀吉の死後、虎視眈々と次期将軍の座を狙う徳川家康が「泣くまで待とうホトトギス」ではなく、戦を仕掛けるきっかけを作ったとされる事件です。
秀吉の子、秀頼が方広寺の鐘に刻んだ「国家安康」(こっかあんこう)と「君臣豊楽」(くんしんほうらく)という文字が徳川家を呪詛し豊臣家の繁栄を祈願している(「家」と「康」の文字は離れているが「豊」と「臣」の文字は隣接している。これは徳川家の弱体を望み豊臣家の繁栄を願っている。との言いがかりを思いついたのが、本多正信だと言われています。
この後、大阪の冬の陣に繋がり、徳川軍が豊臣家を滅ぼします。
この事件も、今回のドラマでは後半になるかと思いますが、知恵のない私からは、悪知恵で無理やりのこじつけとしか思えませんが、凡人と天才の違いなのでしょう。

番外編

  • 松山ケンイチ写真
  • 名前:松山ケンイチ(まつやまけんいち)
  • 生年月日:1985年3月5日

出身:青森県むつ市

大河ドラマ『平清盛』がもしかすると松山ケンイチさんの初見だったかもしれません。
個人的には、松山ケンイチさんの演技というより、演出が好きではなかったので、ドラマも含め
印象がよくありませんでした。
が、それ以降、出演されているドラマなどを見ていると、演技力に魅了されていった気がします。

まとめ

家康(松本潤)が天下をとるまでの道のりで欠く事のできない最重要人物は多くいます。
本多正信(ほんだまさのぶ、松山ケンイチ)もその一人と言えるでしょう。

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まずは、瀬名(せな:有村架純)と嫡男の信康(竹千代:たけちよ)奪還作戦に関わり、
その後、どういう演出で登場してくるのか楽しみです。
古沢良太さんの本多正信(ほんだまさのぶ)伝説はどういったものになるのでしょうか!

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