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どうする家康 真田昌幸(さなだまさゆき「佐藤浩市(さとうこういち」)の罠  徳川を苦しめた真田の戦術・軍略!!

徳川家、真田家それぞれに大きな影響を及ぼした天下分け目の大決戦『関ヶ原の戦い』が遂に始まります。
戦国時代の最強の軍略家・戦術家であり、家康が最もおそれた武将といわれる真田昌幸について少し調べてみました。

みなさんも気になりませんか?

ちょっと覗いてみましょう!

真田昌幸について

名前:真田昌幸(さなだまさゆき)
生年:1547年~1611年
素性:真田家三男として生まれ武田の人質となる
   武田家で英才教育を受け、武田家に仕える
   三方ヶ原の戦いに参加し、徳川勢を打ち破る活躍
   武田勝頼の死後、織田、上杉、北条さらには
   徳川にも仕え、豊臣にも従属
   
役者:佐藤浩市(さとうこういち)

徳川との対立

明智光秀の謀反で信長亡き後、領地問題で「上田城合戦」が起きます。
家康と対立した昌幸は、一度、裏切った上杉と再度同盟を組みます。
武田家で英才教育を受け、軍略に長けた昌幸は上田城を強固な城へと構築しました。
倍以上の兵で攻めてくる徳川勢に対して、まさかの籠城策に出たのです。
油断した徳川は、城に攻め込みますが、隠れていた真田勢に横から攻められ、
撤退させます。
さらに真田は、退路の川に上流の堰を破壊し鉄砲水を放ち、徳川軍に多大な打撃を与えたのです。
結果、真田軍の大勝利となりました。

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その後、豊臣政権となり、真田昌幸が息子信繁の取り計らいで上洛し、秀吉と話し合った結果、真田家は徳川家の与力大名(家臣ではないが部下にあたる大名)となることに決まり、形的には徳川からの攻撃から逃げることができた。
が、昌幸としては本意ではなかったと思われます。

軍略・知力に長けていても戦に必ず勝てるとは限らないということでしょうか。
武田信玄は、ときを計りすぎ寿命が、織田信長は、家臣に裏切られます。
ときには『運』が大きな影響を及ぼすこともあるでしょう。
だからといって、目指すものに対しての準備は怠らず、継続したいと思います。

関ヶ原の戦い(天下分け目の戦い)

天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」です。
この関ヶ原の戦いは、真田家にとっても運命の分かれ道となります。
真田昌幸は究極とも言える策を編み出します。
昌幸は真田家存続のために親子・兄弟を東軍・西軍に分けた「犬伏の別れ」(いぬぶしのわかれ)と
呼ばれる苦渋の決断をします。
これにより、どちらが勝っても真田家が生き残るようにしたのです。

昌幸の罠(軍略・戦術)

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家康の三男・秀忠は、上田城攻略を開始します。
秀忠はまず、信幸と本多忠政を使者にして昌幸の帰順を勧告します。
昌幸は、この交渉に応じたフリをして、秀忠軍を油断させます。
帰順すると見せかけ、土壇場になって態度を翻して抗戦をしかけ秀忠軍を挑発。
秀忠軍を城攻めに集中させます。
一方、昌幸は、徳川側に付いた信幸が上田の支城である戸石城に攻めているのを知り、城を守っていた信繁に城を放棄させ、上田城に撤退させます。
これは、兄弟同士の戦いを避けると同時に徳川に付いた信幸に武功を挙げさせるための策だったとも言われています。
これら昌幸の軍略(罠)によって、秀忠は、長く足止めされることとなり「関ヶ原の戦い」に遅参することになりました。

今から考えれば、「交渉に応じたフリをする」ことも考えられることで、ましてや
軍略・知力に長けた昌幸であれば、当然そういった策に出ることもあると思わなかったのでしょうか。
その辺が、まだ、秀忠にとっては経験が不足していたともいえるのでしょう。

東軍の勝利

関ヶ原の戦いは、石田三成が各大名に裏切られる形で東軍が勝利します。
西軍についていた真田昌幸と真田信繁は、家康に高野山へ移転させられ蟄居を命じられました。
しかし、真田昌幸にとっては、軍略どおりであったと言えます。
なぜなら徳川(東軍)についた真田信幸は、真田家を継承することを確約されたからです。

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「試合に負けて、勝負に勝つ」負け惜しみのような言葉かもしれませんが、自身の意思を貫いた。
試合には負けたけど、思った通りのことはできた。と自分を納得させる言葉だと思います。

昌幸の名言として「さてもさても口惜しきかな。内府をこそ、このようにしてやろうと思ったのに」と
いう言葉があるようです。

そして大阪冬の陣へ

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家康は大坂の陣に先立ち「真田が大坂城に入城した」との知らせを受けたとき、
「親の方か?子の方か?」と訊ねたと言われています。
これは、戦国時代、最強の戦術家と名高かった昌幸が病死したことを家康が信じてなかったようです。
また、家康が、それほど真田昌幸を恐れていたとも言えるでしょう。

強敵との対戦は、とても良い経験になります。
「なぜ強いのか」「なぜ負けたのか」「劣っていることは?」などを学ぶことができ、それらは糧となり、経験として成長につながります。
でも、できることなら楽に勝ちたいですよね。

番外編

名前:佐藤浩市(さとうこういち)

生年月日:1960年12月10日

出身:東京都新宿区

父親は、三國連太郎です。
息子は「寛一郎」で前の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で公暁(こうぎょう)役で共演しています。
言わずと知れた大物俳優なので、多くは語りませんが、父親の三國連太郎とは確執があり、恵まれた家庭で育ったとは言えないようです。
ただ、結果的に父親と同じ俳優業についているところをみると父親に対しての憧れはあったのではないでしょうか。
いずれにしても、観る側からは、とても魅力的な俳優であることは間違いありません。
月9ドラマ「ONE DAY」でも少しコミカルな役柄を見事に演じられていますよね。
これからも活躍を楽しみにしています。

まとめ

『なくまでまとうホトトギス』の家康が、天下人に駆け上がる最大の一戦『関ヶ原の戦い』
天下分け目の大戦で、勝利したあとも家康にとって驚異となる真田昌幸を出番の少ない役でも絶大の存在感で魅了してくれます。
このあとに続く『大坂の陣』を古沢良太さんはどう魅せてくれるのでしょうか。
まだまだ楽しみな大河ドラマですね!

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