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どうする家康 遂に上洛する家康に秀吉は人たらし術を炸裂?! 石田三成『いしだみつなり:佐吉(さきち)』と運命の出会い!!

天下平定を託した豊臣秀吉の死後、戦国時代、最大の大戦「関ヶ原の戦い」で
敵将軍となる石田三成(いしだみつなり)と遂に出会う!!
天才と言われる戦国時代最も優秀参謀の一人、石田三成について調べてみました。

みなさんも気になりませんか?

ちょっと覗いてみましょう!

石田三成について

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  • 名前:石田三成(いしだみつなり)佐吉(さきち)
  • 生年:1560年~1600年
  • 素性:寺の小僧をしていたときに秀吉に才能を見抜かれ家来に迎え入れられた。賤ヶ岳の戦いで一番槍の功名をあげたのが数少ない武功となる。関ヶ原の戦いで家康に破れ、後に処刑される。
  • 役者 中村七之助(なかむらしちのすけ)
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秀吉との出会い

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信長の家臣として着実に力をつけてきた秀吉は長浜城主となります。
領地内で鷹狩をしていたとき、立ち寄ったある寺で小僧に遭います。
その小僧が石田三成(佐吉:さきち)でした。
佐吉は、喉が乾いたという秀吉に最初は、ぬるめのお茶を大きめの茶碗に入れて出します。それを秀吉が飲み干したのをみて、2回目は少し熱めのお茶を少し小さめの茶碗に入れて出します。
秀吉は、そのお茶も飲み干します。すると、佐吉(さきち)は、次に熱いお茶を小さい茶碗に入れて出したとされています。
秀吉は、この佐吉(さきち)の気遣いを大いに気に入り家来にしたと言われています。
現代では『相手のニーズに応える』という当たり前かもしれない行動を本能的に持っていた三成(佐吉:さきち)は、当時としては異端児だったのかも
しれません。
そんな能力を見抜けた秀吉もまた『人たらし』という能力を持つ特別な人物だったのでしょう。

家臣の島左近

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秀吉の家臣で、最も優れた才覚を持つと言われた石田三成でしたが、戦国時代後半になってから出てきたため武功を得る機会が少なく、古くからの武将からは軽んじられていたようです。
そんな三成の家臣になる人物は少なかったようで、そんな中、最強とも言われる島左近(しまさこん)に惚れ込み、口説きに口説き、自身が秀吉から与えられた領地の半分を島左近に与えるという当時では考えられない高給で家臣に迎え入れます。
高給で雇われたと言われる島左近(しまさこん)ですが、周りから認められていない武将に自分が家臣として使えるには、そういった口実が必要だったのかもしれません。

関ヶ原の戦い

日本史上もっとも有名な戦国の大戦ではないでしょうか。
秀吉の死後、秀頼が後を継ぐ形となり、豊臣家を支える重要な家臣が、三成を中心とする知能派と三成を敵対視する武闘派に別れてしまいます。
そんな中、虎視眈々と天下取りを狙う徳川家康が、豊臣を攻める大義名分をコジ付けで、戦を仕掛けます。
周りからは、勝ち目のない戦と言われますが、三成は、諦めることなく、勝つための作戦を練ります。
知力のある三成を考えるともしかしたら、勝ち目が無いと気がついていたかもしれません。
が、豊臣家、秀吉に恩のある三成は、この大戦に臨むしかなかったのかもしれません。

三成の処刑

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関ヶ原の敗戦後、家康によって処刑されます。
三成(みつなり)は処刑直前に警護に対して「のどが渇いたので水が欲しい」と訴えたそうです。それに対して警護していたものが面倒だったのか「水はないが、柿があるから食え」と言うと三成(みつなり)が「柿は痰の毒だ」と答えて断ったとされています。
それを聞いた警護は「これから死ぬ者が毒を気にしてどうする」と返します。
三成(みつなり)は「大志を持つ者は、最期まで命を惜しむ者だ」と言い返し、最後の最後まで、諦めなかったと言われています。

まとめ

石田三成は、歴史上、もっとも有名は参謀の一人ではないでしょうか。
大河ドラマで主役として描かれたことはまだありませんが、前作の「鎌倉殿の13人」で主役として描かれた北条義時よりも多くの逸話があるようにも思います。
いつの日か主役として大河ドラマで描かれる日もくるのではないでしょうか。

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