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鎌倉殿の13人 承久の乱(じょうきゅうのらん)で後鳥羽上皇が敗北(追放) 北条政子(小池栄子)大演説!!義時の戦略で遂に武家政権を確立!!

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』もいよいよクライマックスです。
歴史上でも大きな事変『承久の乱(じょうきゅうのらん)』とその首謀者『後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)』について少し調べてみました。

みなさんも気になりませんか?

ちょっと覗いてみましょう!

後鳥羽上皇について

  • 名前:後鳥羽天皇(ごとばてんのう)=後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)
  • 生年:1180年8月6日~1239年6月19日
  • 素性:文武両道で、朝廷の権力衰退を憂い、鎌倉幕府の執権:北条義時の討伐を謀るが失敗に終わり隠岐島へ配流
  • 役者:尾上 松也(おのえまつや)

※以前にも書きましたが、源実朝一緒に暗殺される源仲章(生田斗真さん)とは堀越高校の同級生

後鳥羽上皇が朝廷の衰退を憂い、源家の血筋が途絶えた、武家政権を拡大する北条義時追討しようと企てたます。
後鳥羽上皇は宣旨の使者を東国へ潜入させますが、その前に京都守護の「伊賀光季」(いがみつすえ)を討ち取ってしまったことで、光季の使者が、ひとあし先に義時へ上皇の企てを伝えることになってしまったのです。
『キーマンは伊賀光季(義時の妻のえの兄?)』

結果、追討の最有力戦力と考えていた「三浦義村(平六)」を取り込むことも出来ず、いち早く情報を知ることができた北条方は、対抗戦略を練る時間ができ、歴史上にも残る政子の大演説が生まれます。

北条雅政子の大演説

『皆さん、心をひとつにして聞いて下さい。これから話すことは、私の最後の言葉です。
 頼朝様が関東に武士の政権を樹立したのち、皆さんの生活も向上したでしょう。
 これはひとえに頼朝様のお陰。
 その恩は山よりも高く、海よりも深いのです。
 しかし、今その恩を忘れて上皇を騙して、幕府を滅ぼそうとしている者が現れました。
 名を惜しむ者は、朝廷側についた、藤原秀康(ふじわらひでやす)、三浦胤義(みうらたねよし)らを討ち取り、源氏の恩に報いてほしいのです。
 もし、この中に朝廷側に付こうと言う者がいるのなら、まず私を殺し、鎌倉中を焼き尽くしてから都へ向かいなさい』

www.news-postseven.com

番外編

政子の演説について面白い解説をしている方がいます。

政子の演説はシェークスピアが書いたアントニーの演説に似ているし、政子はシェークスピアに
並ぶ大演説作家であったのです。つまり『ジュリアス・シーザー』の中のマーク・アントニー演説と比べられるべきですが、史実のアントニー演説は伝わっておらず、いわばシェークスピアの創作でありますから、シェークスピアと政子が対比可能となるのです。

https://kyoyoushugi.wordpress.com/2022/06/22/

北条政子演説はシェークスピア並み!!

政子の異名は「尼将軍」(あましょうぐん)人身掌握術に関しては、後の将軍『豊臣秀吉』の「人たらし」に似ているかもしれませんね。

承久の乱

1219年に源実朝公暁に暗殺された2年後に承久の乱が起きます。
当時は、鎌倉殿の政務は実朝の母である北条政子が代行していて執権の義時が補佐していたとされています。

news.yahoo.co.jp

後鳥羽上皇からの宣旨に対して義時は以下のような返書を出したと言われています。
『私はこれまで上皇に忠誠を尽くして参ったのに、勅命に背いた罪人とされてしまったのは
誠に遺憾です。そのため、私は、息子「泰時(やすとき)」を軍勢としてそちらにお送り致します。
それでもお考えを改めて頂けない場合は、さらに息子の「政村(まさむら)」や「重時(しげとき)」と共に大軍勢を率いて、私自身が上皇のもとへ参上致します。』

まとめ

承久の乱で幕府軍(北条軍)は大勝します。
後鳥羽上皇をはじめとした3上皇はいずれも配流。
都には、泰時(さすとき)時房(ときふさ)が留まり、六波羅探題(ろうくはらたんだい)が設置されます。
その後、朝廷は幕府の監視下的な位置づけとなります。
承久の乱は鎌倉と京都の二元政治を終わらせて武家政権を確立する意義があったといえ、歴史上の転換点になっています。
さて、この歴史上の大事件を三谷幸喜さんは、どのように演出されるのでしょうか。
楽しみで仕方ありませんよねwww

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