大阪冬の陣・夏の陣の火種となたのが方広寺の吊るされた鐘に刻まれた文言が
火種となったと言われています。『方広寺鐘銘事件』
そして、豊臣家随一の家臣、大野治長が秀頼の本当の父親?!
そんな、方広寺鐘銘事件と大野治長について少し調べてみました。
みなさんも気になりませんか?
ちょっと覗いてみましょう!
大野治長について
名前:大野治長(おおのはるなが)修理(しゅり)
生年:1569年~1615年6月4日
素性:生誕の詳細は不明で豊臣家に仕え始めたのが淀殿(茶々)が秀吉の側室になった頃と言われている。
秀吉死後に家康暗殺に関わったとされたが、家康の庇護で死罪とはならず、追放の刑で済んだ。
関ヶ原の戦いでは、東軍側で参戦、これは、石田三成との対立が原因
その後、豊臣家の家臣に復帰し、大坂の陣では、秀頼そして淀殿の側近として従事し、二人の最期にも自害で共にします。
役者 玉山鉄二(たまやまてつじ)
秀頼の本当の父親説
秀吉は、正室の寧々(ねね):北政所(きたのまんどころ)との間に子は授かれず、
多くの側室がいたようだが、なかなか子を授かれなかった。
しかし、淀殿(茶々:ちゃちゃ)との間には、2人の子を授かります。
1説に、石田三成が父親説があるが、秀頼を授かったであろう時期に朝鮮へ渡っていたと
されています。
治長が秀吉の家臣になったのは、淀殿(茶々)が秀吉の側室になった時期からで重なっています。
秀頼は、容姿端麗で身長も高かったと言われています。
それにくらべ秀吉は、身長が低く、「猿(さる)」と呼ばれる容姿から想像するに決して男前だったとは、考えにくいでしょう。
大野治長は、背も高く男前だったと言われており、プリンスと言われる秀頼の父親と噂されるに値します。
今回の大河「どうする家康」では、この逸話に触れる一幕はあるのでしょうか。
家康の言いがかり(方広寺鐘銘事件:ほうこうじしょうめいじけん)
豊臣家が,豊臣家ゆかりの寺である方広寺を再建したとき,1614年に釣り鐘(つりがね)も
鋳造(ちゅうぞう)しました。
その釣り鐘の銘(めい:事物の来歴や人の功績を記したもの)に,「国家安康 君臣豊楽(こっかあんこう くんしんほうらく)」とあったのを徳川家康が見つけ,言いがかりをつけたのが鐘銘事件(釣鐘事件)です。
家康は,この釣り鐘の銘に次のような言いがかりをつけました。
「国家安康」:「家康の名を2つに分断して(「安」の字が「家康」の2文字を2つに切っている),国を安らかにする」「君臣豊楽」:「豊臣(「臣豊」の部分)を君主として子孫繁栄を楽しむ」こうして,家康はこの釣り鐘の銘には徳川家に対するのろいが込められていると言いがかりをつけ,この鐘銘事件を口実にして,同じ年の1614年に大坂冬の陣を起こしました。
鐘銘文のうち「国家安康」「君臣豊楽」の2句で、前者には家康の諱を「家」と「康」に分断して家康を呪詛しているのではないかとし、後者には豊臣を君主として楽しむという底意が隠されているのではないかとされた。
大坂の陣
方広寺鐘銘事件以降、筆頭家臣となった大野治長(修理:しゅり)は、この大坂の陣で、活躍します。
冬の陣では、徳川方との和睦交渉の交渉人として、働き、戦を治めます。
夏の陣では、真田幸村(信繁)を軍師として豊臣方へ迎え入れに尽力したとされています。
更に家康の孫、秀頼の正室である千姫を大阪城から逃がすことに成功させ、徳川方へ治長の首と引き換えに秀頼と淀殿(茶々)の助命を嘆願させます。
結果、家康には、千姫(孫)の訴えに揺らぎがあったが、父親の秀忠には、届かなかった。
そして、秀頼・淀殿(茶々)・治長(修理)は、共に自害して、豊臣家は滅亡させられるに至ります。
まとめ
方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)で、家康が言いがかりとつけたとも言われていますが、言いがかりではなく、豊臣の徳川への恨みが込められていた説もあります。
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、古沢良太さんはどういった演出で大坂の陣へ入っていくのでしょうか。