鎌倉殿の13人第5回『石橋山の戦い』で源頼朝を見逃した場面があり、その後、頼朝に重宝されます。
梶原平三景時(かじわらへいぞうかげとき)はなぜ源頼朝を見逃したのでしょう?
そんなに梶原平三景時(かじわらへいぞうかげとき)ついて少し調べてみました。
みなさんも気になりませんか。
ちょっと覗いてみましょう!
梶原景時について
- 名前:梶原景時(かじわらかげとき)平三(へいぞう)
- 生年:1140年~1200年
- 素性:第5回『石橋山の戦い』で源頼朝を見逃した場面があり、その後、頼朝に重宝される。
源義経とは対立
梶原景時の変で一族が滅亡 - 役者:中村獅童(なかむらしどう)
源頼朝との関係
今回の大河ドラマでは、平家側だった大庭景親とともに源頼朝討伐に加わっていたところ、源頼朝が隠れていたところを見つけるも見逃します。その後、大庭景親側が劣勢になりつつある時期に自ら源頼朝討伐を降ります。
そして、後に源頼朝に家臣として迎え入れられます。が、一説にそもそも平家側ではなく、源頼朝と通じていたのではないかとの見方もあるようです。
古い文献からは、教養があったとされています。
そういったところから頼朝には重宝され、重要な役職を任されてもいます。
源義経との関係
一方、源義経とは、対立していたようです。
大河ドラマでは、義経の奇襲策に対して、戒めるような場面もありました。
他にも信ぴょう性は定かではない義経と対立した話が多くあります。
以前にも記載しましたが、今も昔も慣例のない突出した意見や戦略は、受け入れられることが難しく正論に基づいた意見や戦略が好まれる傾向にあるのでしょう。
そういったことを考えると、景時の考えが、その時代(平安~鎌倉)にあっていたとも思われます。
源頼家との関係
頼朝の死後、頼家にも重用されています。
他の御家人は、頼家に将軍としての器が無いと見ていたようで、頼家に重用されている景時を排除しようと画策していたようです。この時の発信が結城朝光と言われています。
鎌倉殿の13人のひとりである和田義盛をはじめとする66名の武将から連判状が頼家に出され、それを頼家が、景時にみせたが、景時は弁明しなかったのです。
景時を重用していた頼家は、このとき景時を守ることができなかったようなので、やはり上に立てる器ではなかったのかもしれません。
梶原景時の変
弁明・申し開きをしなかった景時は、一族で追放されます。
景時は、その足で上洛を試みますが、道中で「吉川友兼」(きっかわともかね)や、「飯田義家」(いいだよしいえ)らに見付かり襲撃を受けて、一族は滅びたとされています。
つづく
その後、まもなく北条の知略で、頼家は暗殺され、頼家の弟、実朝が将軍となり、ついに北条が実権を取るに至ります。
さて、三谷幸喜さんはどういったストーリーで北条の世を見せてくれるのでしょうか。